雪の夜、彗星探しの日記(弐)

雪夜彗星のブログ。内容も更新頻度もまちまちです。「弐」なのははてなダイアリーから移行したので。

夢見た星空を夏鳥が飛ぶまで

 無事に公式より先日の上映会の報告や5月20日の芝浦工業大学での上映のお知らせが出ましたので、映画「俺ら、夏鳥」の製作をしてきた私個人としての今の思いを綴ります。Twitterに書く事も考えましたが、せっかくブログも持っているのでこちらに書くことにしました。

 何から書こうかと迷った時に、まずはこれを書かないと、と思ったのが初めて作った映画のこと。
 高校2年生の時、文化祭のクラスの出し物として作った「Dream RING」が初めての映画でした。今観ると、稚拙な映画ですが、上映された時は先生方に大変好評頂き、進路の先生にも「あれを作った人は是非その道に進んでほしいですね」とまで言わした作品です。内容は音楽祭に向けてばらばらだったクラスが不思議な指輪の力を使ってひとつになっていくという物語。
 この時、私は監督ではなく、撮影と脚本でした。現場の仕切りや演出はアメコミと映画が大好きな友達で正に適任。かたや当時の私は文芸部とパソコン部に入り、写真も趣味でやっていたものの映画には全く興味はありませんでした。そんな私が映画映像製作に目覚めたきっかけがこの「Dream RING」だったのです。

 そこから映画甲子園で佳作を貰った「星の子たちの邂逅」、大阪芸術大学の映像学科に入り、卒業制作として作った「空花瓶」をはじめとする作品群を経て、「俺ら、夏鳥」の製作するに至りました。

 「俺ら、夏鳥」の企画書を書き始めたのは2016年の8月頃だったかと思います。当時は「End and NEXT Summer」というタイトルでした。表にこの映画の話を出した時もまだこのタイトルだったはず。
 ただ、人力飛行機を描く映画についてはずっと前から構想は持っていました。過去のTwitterの投稿を遡ると映画を作り始めた高校生の頃からそのような野望を持っていたようです。その頃にどんなものを思い描いたのは思い出せませんし、その時のデータも残っていませんが、「俺ら、夏鳥」のルーツがどこかと言えば、ここが最初になると思います。
 大学に入ってからもシナリオの授業で人力飛行機を取り上げたものを書いていました。もちろん、それを映像化、映画化する事は考えましたが、その頃は飛行機そのものも美術で作ることを考えており、どう作るか、予算はどうするのか、人手はどれぐらい必要か、という事を考えて諦めていました。

 そんな中で色んな作品を作りながら大学を卒業し、社会人になり迎えた最初の夏。中村航氏の人力飛行機チームを舞台にした小説「トリガール」の映画化の話が出てきました。
 ここで先程の「End and NEXT Summer」の企画書を書き始めました。大学時代に実際に人力飛行機をつくり、そして映画を専攻してた私が撮らないで誰が撮る、みたいな気持ちだった気がします。先に言ったとおり、険しい道程になるのは分かっており、どうせ無理かもしれないとも感じていました。ただ、まずは人が集まったら撮ろう、飛行機は協力していただけるチームが出てきたらいいな、いなかったら諦めよう。そんな半分無理だろうという思いで始めた企画が、ちょっと声をかけてみたら人が集まり、出来るんじゃないか、と感じて本格的に動くようになりました。
 こうなれば最初は1年での完成を目指し、最初のトリガールに合わせられるように、と撮影も考えていたのですが色々あって1年近くもずれてしまいました。
 自主製作映画なので、謂わば自己満足ですから、途中で製作が終了になってしまう作品も世の中沢山あります。途中、この作品でも諦めかけた事もありました。ただ、今まで自分が作ってきたどの作品よりも多くの方の力添えがあり、励ましがあり上映会を出来るまで漕ぎ着ける事が出来ました。
 本当にこれだけの応援を貰えるとは、想像していませんでした。

 感涙、以外の言葉が見当たりません。
 高校の時に作った「Dream RING」は当時、大変好評だったという話をしました。出来は稚拙でしたが、「俺ら、夏鳥」ができるまでは、Dream RING以上に自分の周りで話題になる映画を作る事は無く、それを越えるものができるとも思っていませんでした。
 しかし、Twitterで #俺ら夏鳥 と検索すると多くの方が感想などを投稿して下さっています。本当にありがたい話です。こんなに多くの人に関心を寄せて貰える事になるなんて、というのが本音のところです。

 今回の記事のタイトルのうち「夢」はDream RING、「星」は星の子たちの邂逅、「空」は空花瓶、そして「夏鳥」はもちろん「俺ら、夏鳥」と今まで作ってきた作品を繋げてみました。

 本当にこんな作品を作らせて頂いて、ありがとうございました。

デュアルSIM (DSDS) 機に切り替えて使えるように設定するまでのお話

 高校時代からずっと続けてきたガラケースマホの2台持ちの生活に1ヶ月ほど前にピリオドを打った。人生最大の機種変更イベントである。元々はauフィーチャーフォン「SH007」をかれこれ7年ぐらい使ってきた。auには9年以上お世話になり、その間、一度もメールを変更する事は無かったので、人生初のキャリアメールの変更をする事にもなった。

 ちなみに、新しい機種はmoto G5 PlusというSIMフリー端末。SIMカードを2枚入れて、同時待機可能な俗に言うDSDS(Dual SIM Dual Standby)対応機である。今回はこいつの導入から使えるようにするまでの話。
 前使っていたSH007は2年縛り契約だったが、あと数ヶ月で解約月になるので寝かせておく事にした。今でも部屋の隅に置いてある。

 今までは前述のフィーチャーフォンの他にSIMフリースマホ格安SIMを挿したものの2台を使っていたのだが、それを1台にまとめたかったのが今回の機種変更の理由だ。
 具体的には、

・端末は1台にしたい
 →複数台持ってると別の端末のメールや着信を忘れる。
・キャリアの電話、メールは持っておきたい。
 →電話は回線の安定さ。キャリアメールは信用のために持っておいた方が良いとも聞くし。
・データ通信は格安SIMで行う。
 →ぶっちゃけ?がないならこれで十分。

 というところ。

 さて、続いて端末の選定。一番楽しいところである。個人的に好きなメーカーのHTCは国内モデルでDSDSが無いので残念ながら選択肢からは排除。まだSIMフリーモデルも発売前だけど、U11もDSDS仕様を出してくれればそちらに飛びついた、かもしれない。断言できないのはその価格故。それにHTC Oneシリーズのデザインが好きだったのでiPhoneみたいなUシリーズも正直あまり好みではない。
 また他のメーカーもiPhoneみたいなデザインばかりで結局、なんとなく見た目に個性を感じたmoto G5 Plusに落ち着きました。

 そして新しい回線の契約。格安SIMは今まで使っていたWireless Gate(480円プラン)のものをそのまま使うので、キャリア回線のみdocomoで新規。moto G5 Plusはau使えないからな、ごめんよ、さらばau。また会う日まで。

 ショップではキッズケータイ用のFOMA回線をmicroSIMで契約して、さらにnanoSIMに乗せ換えてもらう事になった。なお、契約したプランは「タイプSSバリュー」。
 いざ契約となった時に、FOMAの回線にSPモードメールで契約することは新規だと出来ないと言われた。ただ事前に同じ店舗で相談した際には出来ると言われたので、その旨伝えると責任者が出てきて手続きをして貰った。どうやら責任者権限なるものがあれば可能になるらしい。ちょっと複雑な心境になったができたのでよろし。よし、ではない。

 ここでひとまず通話とキャリアメール用のSIMカードは手配できたので、買っていたmoto G5 Plusに入れて通信を試みる。APNの設定作業もさくさくと進めていく。電波も掴んでいるので問題はない、ように思えた。
 しかし、キャリアメールの設定ができない。それに電話の発信、着信はできるがdocomo以外のキャリアからのSMSを受信できない事にも気がつく。こんな事ってあるのか。

 調べてみれば、docomoのSIMは 4G対応の端末では3G回線で通信できないとの事。とりあえず、家には中古で安く買った古いスマホがあるのでそれでメールの開通作業をして解決。ただここで手こずって思いの外通信料がかかってしまった。
 そこからはIMAP対応のメールアプリでメールサーバーの設定をして完了。メッセージRとかSとかFとかは知らん。

 しかし、後者のSMS受信できない問題はインターネットで色々調べてみて、2枚あるSIMを入れ替えてみたり、端末をリセットしたりしてみたけれども上手くいかない。SIMの入れ替えに至っては、まさかの通話用SIMが電波を掴まなくなる始末。ただ、トレイを戻すとちゃんと掴む。こ端末メーカーにも相談したもののやはり解決はできず。初期不良案件か、と思い修理の手配をかけるまで行った。
 が、あるサイトでSIMカードをショップで交換するとうまくいった、という記事を見つけて、最後の望みをかけてドコモショップに足を運んだ。

 SIMカードを新しくした結果、SMSは無事に他キャリアでも受信されるようになりました。めでたしめでたし。何のために私は2度も3度も端末を初期化したんだ……。メーカーの方にも念のために連絡を入れておきました。「SIMカード交換したらSMS受信できたよ」って。

 あと色々設定していてなんとかしたいなあと思う事に至った。それが「留守番電話」。
 フィーチャーフォン時代だと簡易留守メモみたいに端末に留守番電話を録音する事が出来たものの、moto G5 Plusだとこれが出来ない。地味に不便だ。
 何かやり方はないものかと探ってみると、IP電話に転送して云々かんぬんという手段があるので、「」という受信だけなら無料のサービスに登録して、アプリをインストール。キャリアの番号からこちらに転送設定をして完了。
 転送先のIP電話に転送されて留守電が残されるとそのwavファイルをウェブのサービスページからwavファイルをDLするか、メールで添付されてくるという感じ。まあ不便なところもあるもののそこは費用とトレードオフ。なんとか無料で留守電の環境を整えることができた。

 ここまで、初のDSDS機を使うための設定の一連でした。まあこういうケースはあまりないと思いますが、誰かのお役に立てば。とは言え、どこかブログやサイトに載っている情報でやったんですけどね。
 それでも何か気になることがあったらコメントなどで聞いてくれたら分かる範囲で答えるよ。分からないことには「分からない」と返すけど。

意気揚々と不在者投票してきたけど投票なんて行使するか否かを選ぶ権利に過ぎない

 今日は参議院選挙ですね。私は一週間ぐらい前に不在者投票を済ませました。

 大阪から神奈川に引っ越し、住民票を移したのが3月下旬だったのでギリギリ不在者投票になってしまった形です。投票日が7月だから現住所の投票になるだろうと思っていたら違いました。
 まず、今住んでいる市から封筒が来て「どうせ投票の案内だろ」と思い、時間があるときに開けようと思っていました。封筒は早めに開けましょう。
 そして、翌日に前に住んでいた市の選管から封筒が来ました。何かおかしいと思って開けてみると「不在者投票どうする? するならこれ書いて送り返して」みたいな事が書いてあったので急いで現住所の役所の封筒も開封して読みました。不在者投票まじかーってなりました。
 公的なものだから折り返し送る封筒が入っていないものかと思い見てみても無く、役所に「折り返し用の封筒は無いのか」と電話して聞いてみるも「申し訳ないですけど切手はご負担頂いて……」と言われてしまいしましたとさ。

 ということで、封筒も切手も買いました。転居後初です。もちろんどちらも費用はこちら持ち。ブラックサンダーを2つ買ってもお釣りが来る金額ですよ!! あと26円足したらダ○ソーやセ○アで買い物出来るじゃないですかー。
 そして投票用紙を待っていたら、平日の真っ昼間に届いたようで、もちろん勤務中で受け取れず。もちろん、再配達をお願いする事に。レターパックで来ました。そう、レターパックです。役所がレターパック使うとは思っていなかったのでちょっと驚きました(偏見)。

 色々思う所がありながら、甚平を着て草履を履いて期日前投票所へ。まだ土日もやってて20時まで空いているのは良かったです。ようは期限日前投票と同じ感じです。期限日前投票はいつかの時にやりましたね……。これで平日だけとかだったら本当に投票したくても出来なくなるところでした。

 「私、不在者投票デース!」と意気揚々と入って行くと、向こうの人が「あっあっ」みたいな感じで「誰が受付やる?」みたいな事を話している。誰でもいいから早く受付してくれ。「じゃあ私がやります」って漫才やってるんじゃないだから、早くしてくれ。本当なら普通に投票したいんじゃ。10日に近くの投票所に行くつもりだったのに、わざわざ市役所まで来てるんだ。
 こんなのだからこんな事件(NHK news web)が起きるじゃないのか、と今更思いました。受付の人もその日だけのボランティアみたいなものなのかもしれませんけど、もう少ししっかりして……。

 萎えながら不在者投票を終えると、出入り口にNHK出口調査が。人生初の出口調査でこれまた意気揚々と参加したものの、受け取った紙には地元の立候補者の名前にチェックする形。不在者投票の旨を告げ、答えられるところだけ答えて用紙を渡しました。調査していたネーチャンなかなか可愛かったけれど、イントネーションが(当然ながら)関東方言なのでそこでマイナス。

 私は中学生の時からずっと「選挙は権利というが行かなければならないものである」という考えを持ってきました。何より小学生の時から「選挙権がほしい!」と思っているような人でしたから。
 しかし、今回の不在者投票の流れを見ていると「これは選挙行かねえわ」と感じざるを得ませんでした。今回の参議院選挙から選挙権を持つのが18歳以上になりましたけれど、どうせ投票率とか上がらないだろうなあと思っています。
 住民票を移さずに大学近くに下宿している人の中の場合、どう投票すればいいかという知らない人も多いでしょうし、住民票を移していたとしても三ヶ月以内に告示があれば、わざわざ切手代を選挙人持ちで郵送して、投票用紙を送ってもらって、期日前投票所に行ってきました。
 こういう時どうするかって学校の社会でも家庭科でも教えてもらったっけなあ……。

 「若者も選挙に行こう!」といくら大きな声を上げたところで声しかあがっていないのだ。「投票率が低い!」「若者が選挙に行かない!」そんな事を叫んでいたところで、どうしてそうなってしまっているのが考えた事も無いのでしょう。
 テレビや新聞でも議席の数だとか、一票の格差だとか、そんなことばかりが取り上げられていますがそんな事をどうにかされても「投票に行きたい」とは思うようになるわけではないですし。

 こんな事をずっと書いていたら、「やること多すぎて選挙に行く時間なんて無い」と言ってた母の言葉を思い出す。
 「そんなに投票させたいなら投票所が家に来い」

3DCG初心者がBlenderを卒業制作に取り入れてみた話

 初めての方は初めまして。この企画への参加記事になります。私みたいな3D初心者がこんな記事を書くのは憚られると思いつつも、筆(キーボード?)を進めていきたいと思います。

 いきなりですが、大学の卒業制作でこんな映画を作っています。

 「からかびん」と読みます。SFらしくないタイトルですが、SFです。言うなれば、少し不思議、といった感じのお話です。CGアニメーションではなく実写ドラマです。私の専門も本来は実写の撮影なので。

スペースプレーン「バタフライ号」

 さて、この記事の主役はこの映画の登場するオリジナルのスペースプレーン「バタフライ号」のモデルです。このモデルを含めこの映画に登場する3Dモデルは最終的にblenderで調整してレンダリングを行っています。モデリングに関しては制作のスタッフそれぞれ扱いやすいソフトでやってもらいました。またミニチュアとCGカットが混在すると事もありより手軽にフォトリアルなレンダリングが出来るCyclesレンダーを使いました。

 Cyclesでレンダリングした「バタフライ号」がこちら。

 雑いですね、突っ込まないで下さい(笑)。
 そしてこちらが3Dプリンタで出力して塗装したもの。

ウェザリングは大学の助手の方がやってくれました。全長は約40cmもあります。
……ガッツイー◯ルに似てるとか言わない。DreamChasarとかLnxyとかと似ているとかなら認める(笑)。

 Blenderでの編集中の様子はこんな感じ。

上面に色々ディテールアップパーツがついていますが、これらが無い状態(別オブジェクトだから問題ない)でstlファイルに変換、3Dプリンタで出力しました。出力に使用したのはUP PlusとDaVinci2.0でどちらも大学にあるものです。ディテールアップパーツはあとからプラモのジャンクパーツなどを貼り付けてあります(それに応じて3Dデータの方も修正しています)。
 具体的にどうやって3Dプリンターに出したかは去年のこの企画にあったnbngさんの記事を参照してもらった方がいいかと。本当にこれと同じ手順だったので……。ちなみにサイズは3Dプリンタ出力用ソフトウェア上で変更しました。

 ただ、冒頭に書いたとおりこのモデルは40cmもあります。方向をどう工夫してもそのまま前述の3Dプリンタで一度に出力するのは不可能です。なので適当にナイフツールで分割し、モディファイアの「厚みつけ」を適応、ドンガラ状態にして出力しました。上の画像はUPの出力ソフトウェア上での様子です。UPのmac用ソフトウェアってwindows版と違って随分使いづらいんですよね……。

出力したドンガラや翼の接合の作業中がこんな感じ。

これらをパテを使って接合した後に、金ヤスリとアセトンを使って表面処理をしています。それから塗装して完成!!

合成とCG

 撮影の話では無いのでとりあえず「スタジオでグリーンバック使って撮影した」とだけ言っておきます。撮影後はとりあえずAfter Effectsに持ち込んでキーイングで切り抜き、背景素材と合成したりしてこんな感じになります。ちなみにエフェクトは主に別のスタッフがやってくれました。

 背景のロケ地は奈良県・曽爾高原。ドラマパートの撮影もここでやらせて頂きました。
 
 前述の通りCGアニメーションblenderを使っているのでCGカットのお話もしておきましょう。普通にキーフレーム打ってるだけなので、Blenderの話はほぼありませんが。

 CGカットでこんなカットなどがあります。Blenderでは宇宙機本体のアニメーションしか書き出していません。それをAfterEffectsのキーイングで抜いて素材を合成しています(これを作った時、背景を透過に出来る事を知りませんでした)。煙もblenderで出せますが、Cyclesを使っていたこととか、後からの合成のしやすさを含めてAfter Effectsでやりました。

 3DプリンタとCGモデルが混在したカットだとこんなものがあります。

 こういうカットの場合はミニチュアの実写カット、CGカットをキーイングで抜いて背景を合成、それからエフェクトをかけて行って調整しています。

 「空花瓶」は現在も制作進行中なのですが完成したら卒業制作展で外部の方にも見れる機会があるので詳細が決まりましたらTwitterで告知をさせて頂きたいと思います。

 僕自身、mayaや3Ds maxはあまり使ったことがないので分かりませんがミニチュア映像とCGアニメーションを混在させる時に3Dプリンタのデータ(stlファイル)を簡単に出力出来るblenderはおすすめできるんじゃないかと……。
 ちなみにこのバタフライ号は初めてのBlenderモデリングでした。以前はMetasequoiaモデリングをしてライティングとアニメーションをBlenderでやっていたので……。ちなみに大学のPCにBlenderが入っている、とかではなくて私の通う学科には映像系にも関わらず3DCGを扱える環境がほぼゼロで教えてもらえる先生もなかったので自分で環境を整えてきた感じです。
 3Dプリンタは他の学科の物を借りて使いました。

 ちょっと宣伝。
 12月16日から25日まで私の大学で3Dプリンタや切削機を使ったものの展示会をやっているので詳しい事が気になる方はコメントやTwitterなどから連絡を頂ければ詳細をお送りできます。バタフライ号も展示されます。外部の人も入ることができるので、よろしければどうぞ。Twitterアカウントは @sncomet です。下らないことしかつぶやいていません。

 明日はc5h12さんです。Cyclesのお話ということで、楽しみです。

どんぐりと抜け殻

 この間、近所でどんぐりが落ちているのを見つけた。たまたま、下を向いたらそこに沢山のどんぐりを見つけたのである。この場所はしょっちゅう通る遊歩道で何年も前から馴染みの場所であったのだが、どんぐりが落ちている場所だとは全く知らなかった。


 せっかくなので1つだけ拾って帰った。どうして拾って帰ろうと思ったのか自分でも不思議だが、これを見つけた時に郷愁感に浸された気がしたのだ。別にどんぐりのプールに入りたいとは思わないけれど。
 前にどんぐりに拾ったのは小学生の頃だったと思う。拾ったどんぐりに楊枝や串を刺して独楽を作ったり、ただただ滑り台から転がしたりして遊んだ思い出がある。そんな事をやっていたのがもう10年以上前の事と考えると感慨深くなってしまったのだ。

 小学生の頃は本当に毎日の様に外で遊んでいた。虫取りをしたり、運動は決して得意ではなかったけれど野球をしにいったりした。最近、外で遊ぶといえば時々サイクリングかマルチコプターを飛ばしに行く程度。遊び以外を含めるとクラブに関わることとか、撮影とか。自由な時間が沢山あったあの頃に、今やっている事の幾つかを回せないかと思う事もある。

 夏がどんどん恋しい季節が近づいてきている。
 どんぐりではないが、夏になれば蝉の抜け殻を通りすがりに見つけては集めたくなる。どうしてか分からないけれどそういう衝動に駆られるのだ。これもこのどんぐりを見つけた時のいわば「ノスタルジースイッチ」なのだろう。

 就職活動も終わって、春からは社会人になる事が決まった。
 今以上に忙しい日々が待っているだろうが、こういうノスタルジースイッチが入る程度の余裕は持っておきたい。

ここに住んでいて良かった

 随分と久しぶりの投稿。もう2年ぐらい投稿していないので今更投稿しても誰が見るんだ、という感じであるがTwitterで記事更新した、という事も書くつもりだからちょっとは見られるんじゃないかな。
 春もあっという間に過ぎて、夏かと言いたくなるような5月になった。でも二十四節気の中ではもう明日が立夏なんだよなあ。


 今、僕は大阪に住んでいる。皆さんご存知の通り。
 家が転勤族だったから、生まれてから奈良、洲本、松山、姫路、福知山、南あわじ、吹田と移り住んできた。どちらかと言えば多い方になるだろう。もっと多くの場所に住んできた人も、もっと広い範囲を飛び回った人もいるわけで自分の中では多いとは思わなくなってきた。何より吹田に来てから9年ぐらいの年月が経ったから、というのもあるだろう。次に引っ越しをする時は自宅から通えない所が就職先となった時だろう。

 現在大学4回生、院には行かないので現在「就職活動」真っ只中である。
 その中で気がついた事がある。

「大阪に住んでいてよかった」という事。
 大規模の合同企業説明会の会場だって数百円で行ける所にある。本社や支社といった会社の運営機能をもったものがそれなりにある。大阪で開催される説明会や選考は数が多い。
 もちろん、東京に住んでいれば、と思わないわけではない。まして映像に関わりたいとなれば圧倒的に東京が有利であるし選択肢も多かっただろう。それでも東京に既に二度行っている。
 それでも、我が国第二の都市と言われる大阪に僕は住んでいる。これって実はすごく恵まれているのではないか。合同企業説明会で地方から何時間もかけてやってきて帰っていくバスを見ながら思う。彼ら彼女らの地元ではこんな大規模なイベントは開かれないのだ。

 僕が大阪に住む事になったのは南あわじに住んでいた時に発症した持病のためであった。もっとしっかりした病院で見てもらいたい、という事で大学附属病院に近い所に引っ越す事になった。
 もし、姫路にずっと住んでいたら、とそんな未来を考える事がある。
 大学に行かずにそこの地元で働いていた未来もあったかもしれない。あるいは理系に進んでいたかもしれない。それこそ大阪府立大学に入学した未来もあったかもしれない。
 いずれにせよ全く違う道を歩んでいただろう。
 大阪に住んでいるから、人脈をここまで広げる事が出来たんだろうし映像に関わるという事にもなった。

 些細な事かもしれないが、この幸運を噛み締めながらなんとしても就職活動をしていきたいと思う。
 面倒でしんどいものではあるが。

「したい事」の理解と信用

 一昨日は大阪府内の某所でテストフライトでしたが強風と雨のため、滑走すら出来ず。
 そして昨日は堺市の鉢ヶ峯の無縁仏の供養会にクラブに行って参りました。人との繋がりでこういう事もするのです、僕らのクラブというのは。

 僕が通っているのは芸術大学ですし、専攻は映画・映像です。無論、人がたくさん必要ですし、課題であれども学外ロケもやる時はやります。役者さんも外部の人に頼んでやってもらったりするのですが、そんな事を毎年している中で大学に対する役者たちの印象が悪い、という話を先輩(留年して同期になっているのですが)から先日、聞きました。
 だから、自分は外部の役者に頼むのは嫌だ、みたいな感じがしましたね(笑)。

 まあそりゃそうでしょう、というが僕の率直な感想なんですが、それでもやっぱりいい映画・映像作品を撮ろうとすると外部の人に頼んだほうがいいのも明白な事実です。
 どうして、そういう風な印象がついてしまうのか。と言う事を、彼は考えたのかどうか知りませんが個人的に意見を言わせてもらうと、僕ら映画・映像を作りたい側の人間が相手に対して「自分らが作るんだから」という半場上から目線でいるのと、「借りてしまえば何をやってもいい」というような考えで動いていたのではないでしょうか。そこまでならまだいいとして、ロケ中にスタッフが周りを見ていなくて一般人をロケ後にきちんと「お礼」をせず、「感謝の意」をしっかりと伝えなかったりしたのではないでしょうか。などと考えています。そんなに悪評がたつのならそれだけ色々やらかしたのしょう……。
 それに、普段から社会活動のような事に積極的に参加していくのもこういう印象を払拭する手段の一つではないでしょうか? やっぱり知っている顔に場所や物を貸すのと、知らない人に貸すのとでは信用の水準も違うと思います。「星の子たちの邂逅」や現在目下編集中の「川」でも使った近所の池の畔は普段から井戸端会議で訪れている場所で知り合いも多いので「今度映画のロケしますー」と言うだけで(時間帯によりますが)ある程度話が回ったり、差し入れを頂いたりします。それだけの付き合いがその人と僕の間に「信頼・信用」があるわけですね。
 こういう所で理解を得て、見合う礼を尽くせば、そんなに悪評されるようなことはないのではないでしょうか。関わってくれた、手伝ってくれた人全てに。

 冒頭で供養会への参加の話を少し上げたのもこことつながっていて、いくらクラブと言えども作っているものが作っているものなんで、こういう所に出向いて活動することで理解と、そして何より寄付をしてもらえるようになっていくんだなと実感している次第です。
 それにこれから大学の課題で本格的に撮っていくようになりますし、自分への戒めも含めて……。